社長の自叙伝

社長の自叙伝
2017年08月16日

株式会社水野染工場 代表取締役社長 水野弘敏

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印染(しるしぞめ)とは、半纏、のぼりや暖簾(のれん)、旗などに、屋号や家紋などを染め抜いてある染物のことで、印染業者の多くは、紺屋を前身とし、安土桃山時代から江戸時代にかけて発展した。水野染工場は創業明治40年(1907年)、富山から旭川に入植し、100余年。大雪山連峰のキレイな伏流水に恵まれ、北海道の地で印染業を営む。初代より「挑戦」する姿勢は現在にも受け継がれ、インターネットの導入や浅草に直営店の出店など、日本一の印染業を目指す四代目:水野弘敏に、地域ブランドプロデューサーの安藤竜二が迫った。

印刷業界の挑戦者

安藤竜二(以下安藤) 水野染工場さんの歴史を教えてください。

水野弘敏(以下水野) 野染工場は明治時代、富山県で「紺屋(染物屋)」として商いをしておりました。当時、富山県・石川県・福井県などから23万人が北海道に入植していた時代、初代の竹次郎が「旭川には紺屋がないから困ってる」と知人に誘われ、明治40年2月、新天地を求め旭川の地に移転したことが北海道での水野染工場の歴史のはじまりです。大雪山連峰のキレイな伏流水が潤沢で染め物にはとても適した土地であったのです。私で四代目になるのですが、戦前は主流だった着物が、戦後になると着物から洋服へ変化する時代の中、苦労も多々あったようです。「時代は変化するから商品も変化しないといけない」「現状に満足することが一番リスクが高い」など、代々の経営者から受け継がれてきた言葉と精神は現在の経営理念「真心と感謝を染めて 共に感動 そして挑戦」にも表されています。

安藤 水野社長は四代目ということですが、やはり染物屋になるべくして育てられたのですか。

水野 三人姉弟の末っ子で長男として生まれたため、小さい頃から周りの人には染物屋の跡継ぎだと言われ育ちました。家が仕事場だったので、職人さんの作業を間近に見ながら、伊勢型紙を作ることが子どもの頃の遊びになっていました。さらに、テレビを見ながら手ぬぐいをたたむ、など生活の中に染物屋が染みこんでいましたね。

安藤 跡を継ごうと思ったきっかけは何だったのですか。

水野 大学の頃のアルバイトがきっかけです。従業員が、100人いたらどんなにがんばっても101%しか給料が伸びない、当時水野染工場は3名の従業員と両親しかいない小さな会社だったため、倍がんばれば倍給料がもらえる、単純な発想からです。

安藤 そもそも職人として入社したのですか。

水野 最初は京都で修行しました。京都では、本場の染め方、新しい技術などの違いを目の当たりにし、さらに仕事が集まる流通ルートも存在することが分かり、水野染工場が、何が遅れていて何を変えていかなければいけないか勉強になりました。手の怪我がきっかけで旭川に戻り、学んだことを実践し始めたのが昭和60年(1985年)でした。当時は、午前中は営業周り、午後は染めの職人として働き、夜はJCとしての活動、と1人3役で動きまわる毎日でした。営業と言っても、新規営業はあまりせず、神輿会やJCに入り、友達を増やしていったのです。「縁」を大切にすることは会社経営の基礎にもなっています。

安藤 京都で学んだことを実践したのですね。当時の北海道では革新的だったのでは。

水野 もともと、引染(ひきぞめ)という刷毛で染料を生地に染め上げる染色技法のみで作っていた商品を北海道では誰もやっていなかった捺染(なせん)という型を用いた染めを導入しました。半纏やのぼりなどの量産化が可能となり、短納期・低価格を実現することができ、売上も順調に推移していきました。ただ、これ以上成長するにはどうしたらよいか考え、平成元年には法人化、さらに平成2年には、幹線道路沿いにあれば目立つのでは、という発想から現在の地、国道39号線沿いに移転したのです。

安藤 職人の世界で新しい技術を導入するには相当苦労されたのでは。

水野 印染業の職人は、染めの工程で色を作る場合、長年の経験と感覚で動いていくことが当たり前の世界だったのです。数値化していないから二度と同じ色を作りだすことが出来ない、さらに職人は人に教えるということをしないため、技術が受け継がれていかないことが課題だったのです。もちろん新しい技術の導入にも懐疑的でした。そんな中、まず色見本のレシピを作ることから始めました。色見本が300色になった頃から、職人から「どうやるのか」と聞かれるようになったのです。当たり前だった職人の世界の仕組みを変えた瞬間だと思いました。現在では、その色見本も5000色を超え、それを元に数万色の色合わせが可能になっています。

夢をカタチに、カタチを現実に

安藤 水野さんが社長に就任し大きく変わったことは。

水野 平成9年(1997年)、四代目社長に就任しました。当時、神社や寺の半纏や暖簾、幕や、ラーメン屋や飲食店の暖簾など、旭川近郊(道北)のお客様が中心でした。よさこいブームも起こり、旭川のチームを中心に受注も増えていました。ただ、社長として、社員とその家族の人生も背負っていることに気付き、次の世代へ会社を続けていくためにも、全国のマーケットに出て行くことが必要と感じました。そこで最初に行ったことが、インターネットを通じて世界中に、マーケットを広げることでした。平成10年、水野染工場でドメインを取得、サイトを立ち上げました。同業他社が廃業していく中、仕入先がなくなり、困った人がどうやって新しい業者を探すのだろう、と考え出てきた答えがインターネットだったのです。当時のコンセプトは「染物語、染めが物語をつくる」染物が語り、染めが物語を作る、これを表現し印染=アイデンティティをお客様に伝える手段として必要性を感じたことも1つです。

安藤 インターネットが主流でなかった時代、先見の明があったのですね。でも、旭川の染物屋がそれに気付くきっかけはなんだったのでしょう。

水野 JCの広報担当委員長に就任したと同時に、ホームページの担当になったことで、知識を身につける環境にあったのです。最初は制作事例を中心に展開していたところ、徐々に注文が来るようになったのです。本格的に専任者を置いて本業にしていったのが、平成19年(2007年)のことです。YAHOO!や楽天が爆発的に人気を博していた時代、インターネットでは既製品の販売が主流となり、オーダーメイドが敬遠されていました。ただ、水野染工場は、発注フローをわかりやすくチャート式にし、「トッピングフラッグ」というネーミングで最初は応援旗のお問い合わせフォームを作りました。それが好評を得、半纏、暖簾など他の商品にも応用していきました。今では、オーダーメイドフォームも作成し高まるお客様の問い合わせ要望にお答えし、デザイン、下絵、染め、縫製まで一貫して行うことができる為少ロットを実現することが可能なのです。

安藤 大漁旗や寄せ書き旗等の製品も手がけていますね。

水野 結婚式や栄転のお祝いなど、様々な「船出を祝う」ということで大漁旗がとても喜ばれています。他にも、寄せ書き旗や応援旗から、飲食店の暖簾やよさこいの衣装なども手がけています。さらに、最近では海外で手ぬぐいがとても喜ばれているようで、会社がノベルティとして海外の展示会に持っていくなど、様々な用途で使われるようになりました。小ロットでの手ぬぐいのオーダーメイドもやっているんですよ!お客様の要望やその背景にある「物語」をきちんとお聞きして、形にしていることが水野染工場の特徴でもあります。日本の伝統文化である「印染」を通じて、「お客様の思っている夢を染めて、形にしていくこと」が創業から一貫して行っていることです。

安藤 現在は直営店も経営されていますよね。新しい展開を行うきっかけは何だったのでしょうか。

水野 年間を通じて安定した生産と売上の確保をするために、平成16年(2004年)4月、東京浅草に初の直営店「染の安坊」をオープンしました。ただ、オーダーメイドで作ってきた会社が既製品を作ることはとても難しく、水野染工場から生まれたブランドが育つまでには試行錯誤がありました。流行のトレンド、マーケット、売れ筋の色柄をコントロールするための専門家によるチームを結成したのです。そして作ったものが「100センチ×35センチ」大判サイズの手ぬぐいです。通常は90センチ×33センチが標準サイズの手ぬぐいを、今の現代人の体型に合わせたサイズにし、さらに特岡というキメが細かい布に変えて品質をあげたのです。同業者のやりたくないことをやれば、誰も真似できない、と取り組みました。おかげさまで好評をいただき、現在では、鎌倉店、そして平成24年(2012年)には渋谷のヒカリエShinQsに出店するまでとなりました。

安藤 その発想力と行動力がすごいですね。創業当時から受け継がれてきた「挑戦」という精神がここにも根付いています。常に挑戦し続ける、水野社長。今後の展望をお聞かせください。

水野 戦前14000社だった印染業も平成元年には1400社、最近では300社、20年後には100社程度になることが予想されています。さらに、紺色に染めた生地に白い顔料でプリントしたものを藍染として販売している業者も存在しています。そんな中、日本の文化である印染を守ること、そして後世に伝えていくことが私の使命だと思っています。その1つとして、染の安坊の4号店をここ旭川の地にオープンさせ、体験型店舗として染めの体験や資料館を併設し、印染業を伝え続けていきます。さらに、農地を購入し藍を育て、その藍で半纏や手ぬぐいを染め、生産まで行うことができる一貫生産のビジネスモデルをつくることも将来実現させるべくビジョンとしておいています。そして、現在創業100余年の水野染工場を200年続く企業に育てること、印染業界のオンリーワン、ナンバーワンを目指す、そこまでできたら、「人間国宝」を狙えるんじゃないでしょうか。(笑)



水野弘敏
株式会社水野染工場 代表取締役社長


大学卒業後、京都にて修行ののち、水野染工場に入社。1997年四代目社長に就任。お客様と「共に感動」し、真心と感謝を大切にしながらお客様の夢をカタチにするものづくりをしている。創業時からの精神を受け継ぎ、インターネットの導入や直営店の経営など、時代の先駆者であり常に挑戦者でもあり続けている。印染業界の文化を守るため人間国宝を目指している。現在、浅草、鎌倉、渋谷ヒカリエShinQsに直営店を構える。

株式会社 水野染工場 
〒070-0010 北海道旭川市大雪通り3丁目488-26
TEL:0166-29-0000(代) FAX:0166-26-7422
オフィシャルサイト URL http://hanten.jp

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